東京五輪に後押しされ、東京都心はこの10年あまり再開発ラッシュが進んだ。大きく変容した街の一つが渋谷だ。再開発とコロナ禍を経て、街はどう変わったのか。社会学者の南後由和・明治大学准教授と歩きながら考えた。
都内に4回目の緊急事態宣言が出る前の6月下旬の夕方、渋谷駅前のスクランブル交差点はマスク姿の人々が行き交った。昨年4月の1回目の宣言時に消えた人波は戻ったものの、コロナ以前におなじみだった、交差点の中心で写真を撮る訪日客の姿は見当たらない。「広告募集中の空き看板も目立つ」と南後さん。
道玄坂や宮益坂に囲まれた、すり鉢状の地形の底に位置する交差点が、大勢の人が行き交う場として注目されるようになったのは、2000年代に入ってからだ。この頃に開業したQFRONT(キューフロント)(1999年、開業年、以下同)や渋谷マークシティ(00年)といったビルから、交差点を横断する人波を一望できる「スタジアムのような空間」ができたことが大きい、と南後さんは分析する。
渋谷では70年代以降、駅からやや離れた「坂の上」に位置する渋谷パルコ(73年)などが人々を駅前から誘引し、若者文化・消費文化が根付いた。90年代に入ると、人の流れは渋谷109やセンター街、スクランブル交差点がある「坂の下」へ戻った。
05年、駅周辺が国の「都市再生緊急整備地域」に指定されると、大型再開発プロジェクトが始まった。旧東急文化会館の跡地に建つ地上34階建ての渋谷ヒカリエ(12年)や、駅と直結する同47階建ての渋谷スクランブルスクエア(19年)など、高層複合施設が相次ぎ開業した。
「再開発の背景の一つにはアジアの都市間競争がある」と南後さんは指摘する。
バブル崩壊後、中国を筆頭に…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル